MAROONのなんでも diary

MAROONの身の回りの諸々を雑多に書き連ねている日記です。(はてな日記からの移行です)

最近の原作と映像化作品の問題について

最近、原作者の自殺という痛ましい事態にまで至ることになった映像化に際しての原作の改変問題ですが、原作者の方は契約で改変は認めないと明記しない以上は映像会社(映画、テレビ)によって好きなように書き換えられると思った方がいいと思います。それが受け入れられないのなら映像化に同意しないことですね。
また、契約に改変に関する事項の記載が無いのなら、どんな風に変えられても文句を言うべきではないと思います。
他にもストーリーの改変は無いけど、キャストのイメージが違いすぎるという場合は見た側からの不満が生じやすいですね。たとえば「ビブリア古書堂の事件手帖」に剛力彩芽さんが出たときは、原作ではロングヘアーなのに、剛力さんはショートカットなので、「イメージが違いすぎる」という批判(非難?)が出ましたね。(^_^;)
ちなみに、昔、サスペンス映画の巨匠と言われたヒッチコック監督は原作の改変は当たり前で、肝のアイディアだけ使ってまったく別物の作品(翻案とも呼べない)に仕上げることもよくあったようです。
原作者も見る側も映像化されたものは原作とは別の意図の作品と思った方がいいですね。
テレビ局や映画会社も「大人気コミック◯◯◯のドラマ(映画)化」といった宣伝をしていることが多いようですが、内容の改変があるのなら、原作の名前に頼った宣伝は避けた方がいいと思います。原作ファンを呼び込む以上はその違いに対する批判を浴びる覚悟が必要です。
原作が好きな人からしたら、忠実な映像化を期待しているので、改変があればそれだけ落胆して作品の評価自体を下げてしまいがちです。
σ(^_^)はコミック原作だと、ほぼ読んでいないので、原作との差異を気にせず、見た映画のできだけを判断しますが、たまに原作を知っている作品だと、違う作品だと思ってはいても、やはり気にはなりますね。まあ、気にはなるけど、別物と思って見ることにしているので、差異があるという理由で作品の評価を変えることはないですね。
そもそも、原作とのテイストが明らかに違いすぎる作品は、場合によっては最初から見ないですけどね。
少し古くなりますが、σ(^_^)が好きなヒュー・ロフティングの「ドリトル先生」は、エディ・マーフィが「黒人のドリトル先生」を演じる『ドクター・ドリトル』として、ヒュー・ロフティング原作と謳って何作か製作されました。しかし、舞台がイギリスの片田舎からアメリカに変わり、「ドリトル」という名前と「動物と話せる医者」という設定以外は原作と全くの別物でした。個人的にはエディ・マーフィは好きな俳優でしたが、このシリーズは見る気にはならなかったですよ。
別の問題として、テレビ局や映画会社が原作の人気に頼って視聴者(観客)を引き込みたいという思惑があることですね。そのため、「◯◯◯原作」と謳う必要がある訳です。
オリジナル脚本で勝負すればいいのですが、スポンサー対策としては「人気の◯◯◯」が原作なので、視聴率(観客動員数)は大丈夫ですよ、とスポンサーを安心させる材料に使われているという面もありますね。